Re;Stage -Skybule Eyes-
前編
それは、もう当たり前になってしまった、なんでもないある日のことだった。
アッシュフォード学園に戻り、そのまま大学に進学したカレンは、卒業後、黒の騎士団へと戻った。
零番隊の隊長――つまりゼロの親衛隊長に戻り、今では世界を回る彼の護衛についている。
尤も、今のゼロには護衛など必要ないかもしれないと思いつつ、今日もいつものようにゼロと共に日本に戻り、彼の代わりにナナリーの車椅子を押していた。
政庁の長い廊下を、ナナリーと談笑しながら歩いていると、突然ゼロが立ち止まった。
何かと思って顔を上げた瞬間、呼吸が止まるかと思った。
ゼロの体がぐらりと揺れ、そのままその場に音を立てて倒れた。
「ゼロっ!?」
始めは、何が起こったのかわからなかった。
ナナリーの叫び声で我に返り、カレンは車椅子を放す。
「ゼロっ!ゼロっ!!……スザクさんっ!!」
すぐにナナリーが彼の傍に寄る。
けれど、立ち上がることの出来ない彼女では、床に倒れたゼロを抱き起こすことなんてできない。
「スザクさんっ!!嫌っ!!しっかりしてくださいっ!!」
「スザクっ!しっかりしてっ!!」
慌てて傍に駆け寄って、その体に手をかける。
頭に衝撃を与えないように抱き起こして、息を呑んだ。
ゼロの――スザクの体は、とても軽かったのだ。
おそらく、記憶の中に残る『彼』よりも、ずっと。
「ま、だ……」
唖然としていると、ふと耳に声が届いた。
変声機を通しているせいで、細いその声は聞き取りにくい。
ナナリーが身を乗り出すその前で、カレンはゼロの仮面に耳を寄せた。
「やくそ、く……果たしてない……」
「スザク……?」
「ゼロは、平和の象徴に……。人生全てを捧げて、へいわ、に……」
その言葉に、カレンは目を見開く。
それは、その約束は、おそらくスザクが『彼』としたもの。
この十数年の間、スザクの支えであったもの。
「だからまだ……あえない、から。わたしは……ぼくは、まだ……」
仮面の下からの声が、徐々に小さくなる。
それに嫌な予感を覚え、再びスザクの名前を呼ぼうとした、そのとき。
「あい、たい……」
「え?」
耳に届いた言葉に、カレンは思わず言葉を飲み込む。
床に落ちたスザクの、手袋に包まれた手が何かを求めるように、ほんの少しだけ上がる。
「ルルーシュ……」
最後に耳に届いたのは、もういない『彼』を呼ぶ声。
それを最後に、上げられた手が床に落ちた。
「スザク……?ちょっと、スザクっ!!」
「スザクさん!スザクさんっ!!返事をしてくださいっ!スザクさんっ!」
慌ててナナリーと2人、必死に彼に呼びかける。
けれど、どんなに必死に呼んでも、彼が再び口を開くことはなくて。
慌てて斑鳩に来ているはずのラクシャータに連絡を入れると、カレンはゼロを抱き上げ、黒の騎士団の影響下にある病院へと走った。
カーテンが閉められた、真っ白な病室。
その病室の扉が、勢いよく開かれた。
「ゼロ様が倒れたって……っ」
同時に和服姿の黒髪の女性と、黒の騎士団の制服を着た金髪の男が駆け込んでくる。
女性の言葉に、病室にいた全員――カレン、ナナリー、ロイド、セシル、咲世子、扇、藤堂――がそちらを見る。
女性の姿を認めた扇が、辛そうに目を細めた。
「神楽耶様……。ジノ……」
神楽耶の縋るような視線から目を逸らすと、扇は黙ったまま脇へと退く。
空いたそのスペースに、神楽耶はゆっくりと足を進めた。
ごくりと息を呑んで、ベッドの傍に立つ。
その上に横たわる人物を見た瞬間、神楽耶は僅かに目を瞠った。
「スザク……」
そこには、仮面を取ったスザクが横たえられていた。
服もいつものゼロ服ではなく、検査着のようなものに着替えさせられ、白いシーツに沈み、目を閉じている。
その顔は、点滴の付けられた腕は、最後に見たときよりもずっと細かった。
「いつの間に、こんなに細く……」
「細いのは当然だよ。食事をしていなかったんだから」
神楽耶は、ただ呟いただけだった。
けれど、それに苛立ちを含んだ声が返ってきて、その場にいる誰もが驚き、顔を上げる。
「え?」
「ロイドさん」
「隠したって仕方ないだろう?ラクシャータの検査でも、はっきり出る。スザク君が倒れたのは、栄養失調が原因だ」
セシルの咎める声も聞かず、はっきりと断言したロイドの言葉に、カレンは思わず息を呑んだ。
確かに、ゼロとして現れて以来、スザクが食事をしているところなんて見たことがない。
けれど、それは仮面を取ることができないからであって、本当に食べていないからなんて考えもしなかった。
「食事をしていなかったって、いつからですか?」
ナナリーの声に、カレンは我に返る。
隣にいる彼女は、真っ直ぐにベッドの反対側に立つロイドを見つめていた。
「いつから、スザクさんは食事を……」
「もう10年以上です、ナナリー様」
答えたのは、ロイドでもセシルでもなく、咲世子だった。
「ゼロレクイエムの後から、スザク様は食べ物をほとんど口にしていませんでした」
あの日以来、咲世子はゼロに仕えるメイドとして、ゼロの身の回りの世話をしていた。
その咲世子が、はっきりと答える。
その答えに、それまで黙って話を聞いていた扇が声を上げた。
「そんな……。どうして……っ!?」
「スザク君自身が、拒絶したんです」
「枢木が?」
次に答えたのは、咲世子ではなくセシルだった。
その答えに、藤堂が訝しげな視線を向ける。
いつからかスザクを名前で呼ぶことをしなくなった藤堂のその問いに、セシルは小さく息を吐き出すと、目を閉じた。
「最初は、本人も食べようとしていました。けど、何度食べても、全部戻してしまうと言っていて……」
「スザク様に頼まれて、消化に良いものを作ったこともありますが、それも同じでした」
消化の良いもの――日本人ならば、思い浮かぶのはお粥だ。
咲世子もスザクも日本人だ。
もちろん2人ともそれを連想して、咲世子はそれを作ったのだろう。
それすらもスザクは食べられなかったのだと、彼女は語る。
「そのうち、スザク君は水以外の一切の食べ物を受け付けなくなった。少なくとも、この10年は点滴だけで過ごしていたよ」
「そんな……」
神楽耶が己の口を両手で覆い、スザクを見つめた。
目覚める様子のない彼は、仮面を被る前の姿が嘘のようにがりがりに痩せ細っている。
服を着ていたときは、昔と変わりないように見えた。
その理由を、カレンは既に知っていた。
スザクは、自分の体に異変が起こっていることを知られないために、ゼロ服の下に別の服を重ねてきていた。
不自然にならないように、ロイドとセシルに頼んで、特殊なスーツのようなものを造ってもらっていて、それで誤魔化していたのだ。
セシルの手が、スザクの痩けた頬を撫でる。
その目には、悲しみが浮かんでいた。
「スザク君は、必死に生きようとしていました。けれど、たぶん心の底で、それを拒絶したかったんでしょうね」
「それが食事を受け付けないという形になって現れたんだろうね。食事は、人が生きるために必要なものだから」
セシルと同じような悲しげな目でスザクを見つめたまま、ロイドが呟くように口を開いた。
痩せてしまっているせいか、カレンと同い年のはずのスザクは、酷く老いて見えた。
「スザク……」
神楽耶の隣に立ち、スザクの顔を見たジノが、ぼろぼろと涙を流す。
それはぱたぱたとシーツの上に落ち、染みこんで消えていった。
「何でだよ……。そんなに辛いなら、やめちまえば良かったのに……。こんなになる前に、やめちまえば……っ」
「できなかったんですよ、ヴァインベルク卿」
セシルの声に、ジノは涙を流したまま顔を上げた。
カレンを始めとする他の面々も、不思議そうに彼女を見る。
皆の視線を受けても、セシルは顔を上げようとしなかった。
スザクの髪を労わるように撫でながら、静かに目を閉じる。
「スザク君には、そんなことはできなかった。だって、それだけがスザク君の、生きる理由だったから」
「生きる、理由……?」
扇の、呟きのような問いに、セシルは顔を上げる。
それと同時に、ロイドと咲世子も彼を見た。
三対の、責めるようなその目に、扇は思わず息を呑む。
それを見たロイドが、まるで気に食わないものを見るかのように目を細めた。
「ゼロとして、生きること。平和の象徴として、人々の前に立ち続けること」
口を開いたのは、セシルだった。
彼女のその言葉に、扇ははっと目を瞠り、神楽耶と藤堂が痛みに顔を歪め、スザクを見下ろす。
ナナリーは、既にセシルの言葉を悟っていたのだろう。
顔を覆い隠して、静かに涙を流していた。
「ルルーシュ陛下のその願いだけが、今のスザク君の生きる理由だったんです。陛下の願いを叶え続けることだけが、スザク君の生きる理由で、願いだった」
その言葉を聞いた瞬間、カレンは息を呑んだ。
一瞬で頭の中に蘇ったのは、意識を失う直前に聞いたスザクの声。
変声機を通したものだったけれど、確かに彼の口から紡がれた、言葉。
『やくそ、く……果たしてない……』
『ゼロは、平和の象徴に……。人生全てを捧げて、へいわ、に……』
その約束だけが、スザクにとっての支えだった。
あの日からスザクは、その約束に縋って生きてきた。
ルルーシュとの約束を守るためだけに、彼は生きてきた。
ゼロとして、自分の本当の気持ちは押し殺して。
「そう考えるとさぁ。やっぱりライ君は幸せだったんだよね」
「え?」
「ロイド様」
ロイドの言葉に、カレンは意識を現実に引き戻す。
咲世子がロイドを咎めるように呼んだけれど、その途端、彼は不満そうに咲世子を見た。
「だってそうだろう?彼はルルーシュ陛下と一緒に逝けたんだよ?スザク君は置いていかれたのに」
その言葉に、カレンははっと目を瞠る。
先ほど、スザクが言った言葉が頭に過ぎる。
ナナリーには届いていなかった、カレンだけが聞き取った、彼の最後の言葉。
「本当は陛下と一緒に生きたかった彼らにとって、これ以上の幸せはないと思うけどね」
『ルルーシュに会いたい』
ロイドの言葉に、あの時のスザクの言葉が重なって聞こえて、カレンは思わず目を閉じ、拳を痛いくらいに強く握り締めた。
それ以来、スザクの意識が戻ることはなかった。
点滴以外で栄養を摂取していなかった体は、本当に限界を迎えていて、医学の道に戻っていたラクシャータにも手の施しようがなかった。
3日後、スザクは真っ白なその部屋で、静かに息を引き取った。
葬儀は、スザクの生存を知っていた者だけで密かに行われた。
枢木スザクは、十数年前のあの最終決戦で死んだことになっていたのだから当然だ。
スザクの遺体は、既にある彼の墓に埋葬された。
かつてルルーシュが、スザクが死んだと偽るために造ったそこに、今度は本当に棺が納められている。
皆が引き上げたその場所に、カレンは1人立ち尽くしていた。
久しぶりにストレートにした紅い髪が、風に吹かれ、揺れる。
その場にしゃがみこむと、カレンはそこに刻まれた文字を撫でた。
『第99代ブリタニア皇帝ルルーシュの無上にして唯二人の騎士の一人、ここに眠る』
ブリタニア語でそう刻まれた文字を見て、切なげに目を細めた。
ここにあるのは、スザクの墓だけだ。
ライの墓は、ない。
あの混乱の末、彼の墓が作られることはなかった。
ルルーシュの墓だって、一応はあるけれど、中身は空っぽだ。
彼の遺体は、今はどこにいるかもわからないジェレミアが秘密裏に埋葬し、本当の墓が何処にあるのかもわからない。
きっと、ライもそこで一緒に眠っているだろうに。
スザクだけが彼らと一緒になれないことが、とても悲しいことのような気がした。
目を閉じて、ふうっと息を吐き出す。
スザクに何か言ってやりたくてここに残ったはずなのに、何の言葉も出てこない。
それは、きっとわかっているからだ。
今更何を言っても、スザクから答えが帰ってくることはないと。
だから、言葉に出来ない。
ただそこで目を閉じて、祈ることしかできない。
「本当にあんたたちは、謝ることもさせてくれないんだから……」
皮肉のようにそう言って笑おうとしたけれど、駄目だった。
零れてしまった涙を拭って立ち上がる。
皆が待っているだろう宿に帰ろうと、スザクの墓から視線を外したそのときだった。
「ゼロをテレビで見なくなって、もしやと思っていたが……」
「え……?」
突然耳に飛び込んできた声に、思わず顔を上げる。
ずっとスザクの墓ばかり見ていて気づかなかったけれど、少し離れたところに、いつの間にか誰かが立っていた。
「やはり、スザクは死んだのか……」
碧の髪を持つ、まだ若い少女。
その姿に、その声に、カレンは覚えがあった。
まさか、そんなはずはないと思う。
けれど、その姿は記憶の中にある『彼女』の姿と瓜二つで、気づいたときには頭に浮かんだ名前を呼んでいた。
「C.C.……!?」
「久しぶりだな、カレン」
沈んだ顔をしていた少女が、懐かしい笑みを浮かべて答える。
記憶と違わないその姿に、反応に、カレンは思わず数歩後ろに後ずさった。
「どうして……?あんた、変わってない……っ」
「当然だ。私は魔女だからな」
肩にかかった髪を払いながら、C.C.は笑う。
「魔女って……」
「私は人ではない。不老不死の魔女だ。お前たちと共にいた頃から、ずっとそう言っていたはずだが?ゼロも、私のことをそう呼んでいただろう?」
ゼロという言葉を口にしたそのとき、ほんの一瞬だけ、C.C.の顔に痛みが走ったような気がした。
その表情に――いや、表情を見なくても、わかる。
彼女の告げる『ゼロ』が、一体誰のことなのか。
「魔女……」
口の中で、C.C.が自らを示した言葉を転がす。
ふと思い当たるものがあることに気づいて、カレンは顔を上げた。
「もしかして……ギアス?」
「正解だ……と言いたいところだが。正確には違う」
ふっと笑うと、C.C.は前髪を掻き上げた。
一緒にいる時は――共に暮らしていたこともあったというに――見たことのなかったその場所に、紅い印が刻まれている。
見たことのあるその印に驚き、彼女の金の瞳を見れば、魔女と名乗った少女は寂しそうに笑った。
「私はギアスを与える側だ。そのギアスを与える力のせいで、私は死ぬことが出来ない」
「だから、あの頃のままなのね」
「そうだ。理解が早くて助かるよ」
「そりゃあ、私はライから少しだけど、話を聞いていたもの」
ライがギアス能力者であるということを、カレンは知っていた。
まだルルーシュが記憶を取り戻す前に、ライ本人が自分と卜部だけに話してくれたのだ。
彼がギアスを使った姿を見たことは一度もなかったけれど。
「ライから、か……」
彼の名前を口にした途端、C.C.の表情が曇る。
少し輝きが弱くなった金の瞳が、切なげに細められる。
カレンとしては珍しいC.C.のその表情に、僅かに目を瞠ったそのときだった。
「なあ、カレン」
俯きかけていたC.C.の顔が上がり、金の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめた。
けれど、そこから切なげな光は消えていなかった。
「スザクは幸せだったか?」
C.C.の発した言葉が、最初は頭に入ってこなかった。
「え?」
思わず聞き返せば、C.C.はほんの少しだけ視線を彷徨わせ、再び口を開いた。
「ルルーシュの願いを叶えるために生きて、スザクは幸せだったか?」
その問いに、カレンは思わず奥歯を噛み締める。
最期に聞いた、スザクの言葉が頭の中に蘇る。
脳裏に響くその声を聞きながら、カレンは静かに目を閉じた。
「私はスザクじゃない。だから、スザクが幸せだったかどうかなんてわからないわ」
スザクは、ただ必死だった。
ルルーシュの遺した願いを叶えるために、必死に生きていた。
『明日』のために、ただ必死に前を向いていた。
自分がわかるのは、それだけだ。
それがスザクにとって幸せだったかどうかなんて、わからない。
「でも、ロイド博士は、ルルーシュと一緒に逝けたライの方が幸せだったんじゃないかって言ってた」
スザクも、本当はルルーシュと一緒に逝きたかったのかもしれない。
或いは、ルルーシュと一緒に生きたかったのかもしれない。
そうだったのだとすれば、スザクは本当に、幸せだったのだろうか。
ゼロとして生きたことは、スザクにとって幸せになりえたのだろうか。
それはスザク本人にしかわからないことだった。
そして、そのスザクがいなくなってしまった今、その答えは誰にもわからない。
だから、カレンには答えられない。
結局、何が幸せかなんてことは、それを感じる本人にしかわからないのだから。
「ライの方が幸せ、か……」
ぽつりと、C.C.が呟いた。
その声に、顔を上げたカレンは目を瞠る。
ほんの少しだけ俯いたC.C.の表情は、歪んでいた。
悲しみではなく、痛みで。
どうしたのかと思い、声をかけようとしたその時、C.C.が顔を上げ、真っ直ぐにこちらを見た。
「カレン。この後何日か時間はあるか?」
「え?ええ、休暇は取ってるけど……」
「なら、少し付き合え」
戸惑いがちに答えれば、C.C.らしい命令系の言葉が返ってくる。
昔なら、「何を偉そうに」とか、「それが人に物を頼むときの言葉か」などと怒っただろう。
けれど、今はそんな風に怒る気分でも、悪態をつく気分でもなかった。
「お前に、会わせたい奴がいる」
はっきりとそう告げたC.C.の瞳に、それまで見たことのない強い決意の色を見た気がして。
気がついたときには、カレンは了承の返事を返していた。