子供の喧嘩
最近ゼロがよく転ぶ。
そんな噂は、いつから広がっていたのだろうか。
もし本当なら相当疲れているのだろうか。
そう思って、ゼロの仕事のスケジュールを調整しようと、ユーフェミアに相談を持ちかけようと考えていた矢先の出来事だった。
「ほわあっ!?」
機械混じりのそんな声が聞こえたときには、ライはもう動いていた。
「ゼロ!」
咄嗟に前に回って、その体を抱き止める。
たぶん普通の人間なら間に合わなかったかもしれないが、驚くほどの瞬発力でそれを成功させたライは、ほっと息を吐き出すと、仮面を付けたままの彼の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「あ、ああ。すまない。助かった」
暫く呆然としていたゼロは、けれどひとつ息を吐き出すと、体制を立て直す。
怪我をした様子のないその姿を見て、ライは安堵の息をついた。
それを見ていたユーフェミアが、心配そうにゼロを覗き込んだ。
「大丈夫ですか?ゼロ」
「ええ。すみません、ユーフェミア総代表」
「いいえ。怪我がなければいいのですが」
本当に心配そうな表情をするユーフェミアに、ゼロは困ったように何度も大丈夫だと告げる。
何度目がそれに、ユーフェミアも漸く折れた。
「それにしても、最近よく転びますね。やっぱりお疲れなんじゃないですか?」
「いえ、そんなことは……」
ゼロが珍しく、言いにくそうに口籠もる。
それにライが違和感を覚えたそのときだった。
「体調管理もできないなんて、特区の代表者として失格なんじゃないか?」
突然そんな厳しい口調の言葉が耳に届いた。
それを聞いた瞬間、ユーフェミアがばっと後ろを振り返る。
「スザク!そういうことを言うものではありません」
「……申し訳ありません」
そこにいたスザクは、ユーフェミアに叱られ、軽く頭を下げた。
不満そうなその顔は、とても反省しているとは思えない。
ゼロは構わないと、少し覇気のない声で言うのだが、その声にもスザクは答えようとはしなかった。
だから、ライも我慢をやめた。
「そうだな。少なくともそれは、わざとゼロに足をかけてる君が言う台詞じゃないな」
普段よりずっと低いその声を耳にしたユーフェミアが、驚いて振り返る。
「え?」
「ライ!」
ほぼ同時に咎めるようなゼロの声に、ライは目を細めて彼を見た。
「やっぱり……。気づいてて黙ってたのか、ゼロ」
そう確信を持って口にすれば、ゼロはふいっと顔を逸らす。
それはそうだ。
彼自身が気づいていないはずがない。
そのゼロの姿を見て、ライは大きなため息をついた。
「ゼロが転んだって話を聞くと、いつもスザクが側にいるという目撃情報もあったから、ずっと気になってたんだ」
そう言ってスザクを見れば、彼はあからさまに視線を逸らす。
その様子を見ていたユーフェミアが、信じられないと言わんばかりの表情を浮かべて彼を見た。
「本当なの?スザク」
「……それは」
「僕の目を誤魔化せると思うなよ?枢木少佐」
口を開こうとしたスザクの言葉を遮るように、ライははっきりとそう告げる。
一瞬こちらを見た翡翠の瞳は、すぐに逸らされた。
そのまま黙り込むスザクを見て、ライは盛大なため息をつく。
そして、そのルルーシュよりも深い紫の瞳でスザクを睨みつける。
「ガキか貴様は」
鋭い眼光を向けたまま、はっきりとそう言ってやる。
それはライが滅多にしない口調だった。
だからユーフェミアもスザクも、一瞬彼が何を言ったのかわからなかったのだろう。
「え」
「な……っ」
一瞬の間を置いて、ユーフェミアが驚きの表情で、スザクが怒りの表情を浮かべて反応を見せる。
「ライ!」
唯一ライのその一面を知っているゼロは、先ほどよりも強い口調で、咎めるようにライを呼んだ。
けれど、ライはゼロに視線を向けただけで、答えない。
すぐにそれをスザクに戻すと、その口調のまま口を開いた。
「こんなくだらない嫌がらせしかできないなんて、ガキ以外のなんと呼べと?こんな奴がブリタニアの騎士だなど、聞いて呆れる」
すれ違いざまに足をかけて転ばせるなんて、子供のいたずら以外の何者でもない。
しかも、気に入らない相手にそれをするなど、子供そのものだ。
そんなくだらない手段でゼロが怪我をしていたかもしれないと思うと、許せない。
何より、普段から「正しい手段を」なんて言っている人間が、そんなくだらない嫌がらせをしている状況に、心底呆れた。
「言いたいことがあるなら、その口ではっきり言え」
きっぱりはっきりそう告げると、ライはもう一度ぎろりとスザクを睨みつけた。
そうしてから、一度目を閉じ、そのままユーフェミアに向かって深々と頭を下げる。
「差し出がましい真似をして申し訳ありません、総代表」
「……いいえ。あなたの言うとおりです」
ライの謝罪に、ユーフェミアは首を振る。
そのまま、厳しい表情を浮かべたかと思うと、その藤色の瞳をスザクへと向けた。
「スザク。ゼロに何か言いたいことがあるなら、はっきり仰いなさい」
ユーフェミアにもそう言われ、スザクはびくりと肩を震わせる。
「自分は……」
それ以上言葉を口にできないのか、顔を背けたスザクを見て、ライはため息をついた。
「まあ、ここじゃ君もゼロも言いにくいだろうしな」
スザクが何を言いたいのか、察しがついている。
それは公の場で口にできることではないと言うことも。
ならば、これ以上人の目に付かないようにするためにも、別の場所で話し合った方がいい。
そう考えたライは、一瞬だけゼロを見ると、彼が答えようとするより早くユーフェミアに声をかけた。
「ユーフェミア総代表。明日、僕ら3人、休暇を申請してもよろしいですか?」
「え?」
一瞬不思議そうな顔をしたユーフェミアは、すぐに事情を察してくれたらしい。
「ええ。わかりました」
はっきりとそう答えをもらい、ライは薄く微笑んで礼を告げる。
彼女から視線を逸らすと、ライはすぐに先ほどまでの、不機嫌と言わんばかりの表情を浮かべ、スザクを睨みつけた。
「そういうわけだ、スザク。今晩僕の家に来い」
アッシュフォード学園のクラブハウス。
律儀に制服に着替えたスザクは、その建物の中のある部屋の前にいた。
先ほど、昼間言われたとおりにライの部屋を尋ねたから、私服に着替えていたライにここに連れてこられたのだ。
「話し合って来い」
そう言ってスザクを扉の前に立たせた彼は、そのままどこかへ消えてしまった。
「話し合ってこいって言われても……」
彼がどういう意図でそう言ったのか、わかっている。
行政特区が成立してからの彼は、以前にも増していろいろなことに鋭いから、きっと自分が何に苛立っているのかも気づいているのかもしれない。
わかっている。
このままではいけないということは。
でも……。
このまま特派で間借りしたままの大学の寮の自室に帰ってしまおうかと思った。
そう思って、踵を返そうとしたそのとき、突然目の前の扉が開いた。
驚いて顔を上げれば、目の前にはその部屋の主であるルルーシュの姿があった。
「いつまでそこにいる気だ?」
久しぶりに聞く、変声機を通していない彼の声が耳に届く。
「入れ」
そう言って、彼は部屋の中へと戻っていく。
少し迷って、スザクもその後を追って中へと入った。
「いいのか?」
誰もいないはずの廊下に声が響く。
振り返れば、そこには碧の髪を持った魔女がいた。
「今の枢木スザクは、ルルーシュに何をするかわからないんじゃないか?」
「何かしようとしたら飛び込んでいくから大丈夫だ」
はっきりとそう言い返したライは、そのままルルーシュの部屋に向かって歩いていく。
けれど、中に入ることはせずに、扉の向かいの壁に背中を預けた。
「そうやって見張っているつもりか」
「当然だろう?」
側に寄って来て、呆れたように言うC.C.に向かい、ライははっきりと言い返す。
「ルルーシュを傷つけるようであれば、誰であっても許さない」
紫紺の瞳が、ルルーシュの部屋の扉を睨みつける。
中の様子を伺うために集中を始めたライを見て、C.C.はため息をついた。
「お前も相当だな」
「人のことを言えるのか?魔女」
「何の話だ?」
途端に不機嫌に顔を歪めたC.C.に、ライは一瞬だけ視線を向けた。
「さあ?何だろうな?」
そう言って、彼はにいっと笑った。
部屋の奥にあるソファに腰を下ろしたルルーシュは、腕組みをしたまま入口の側で立ち尽くすスザクへ視線を向けた。
スザクは漸く中へ入ってきたものの、俯いたまま口を開こうとしなかった。
暫くの間彼が話を始めるのを待っていたけれど、このままでは埒が明かない。
そう思ったルルーシュは、ひとつため息をつくと覚悟を決めた。
「そんなに俺が気に入らないか?」
そう、呟くように尋ねると、スザクは漸く顔を上げ、こちらを見る。
「僕は……」
「ゼロの正体が俺だったのが気に入らないんだろう?」
「……っ」
案の定と言うべきか、スザクは苦虫を噛み潰したような顔になる。
それを見て、ルルーシュはため息をついた。
「図星か」
呟くようにそう言えば、途端にスザクはこちらを睨みつけてきた。
予想していたその反応を見て、ルルーシュは目を閉じる。
「君が……」
漸くスザクが口を開いた。
それでもルルーシュは目を開かない。
そのまま、彼の次の言葉を待つ。
「君がゼロだなんて、信じたくなかった」
「その言い方だと、気づいてはいたんだな」
「……っ」
そう言い返せば、スザクが息を呑んだ気配がある。
小さくため息をつくと、ルルーシュは目を開けた。
「いつから気づいていた?」
「……わからない」
「そうか」
「核心を持ったのは、ナナリーが意見を変えたから、だけど」
「ナナリー?」
思わぬ名前に、足下に向けていた視線を上げた。
「それまでゼロに対して否定的だったナナリーが、急に好意的な意見を言うようになった」
「ナナリーが……」
「同じ頃に、カレンがよく君と一緒にいるようになった」
言われて思い出す。
確かにカレンに自分がゼロだとばれたときと、ナナリーに真実を告げたのはほぼ同時だ。
「そうなった頃から、君はライやカレンと一緒にいることが多くなったし、ライとカレンが、あからさまに僕を敵視するようになった」
確かにライは、ゼロの正体がカレンにばれた直後からスザクへの態度があからさまになったような気がする。
神根島の一件でライの前で仮面を取って以来、彼がスザクを敵視するようになっていたことには気づいていたけれど、カレンとナナリーに話をするまではそこまでではなかったはずだ。
「あの2人は、君がゼロだと知っていたのか?」
「途中からだがな」
聞かれたことを、そのまま素直に答える。
今更偽る理由などない。
けれど、スザクはそれすら憤りを感じるのか、下ろした拳を強く握り締めたのが目に入った。
「どうして……っ」
「経緯を話す必要はない。2人ともゼロの側近だ。知っても不思議じゃないだろう?」
最初は誰にもばらすつもりはなかったけれど。
ライが同じギアス能力者であると知らなければ、誰にも言わなかったと今でも思っている。
けれど、そんな想いをスザクに話すつもりはないし、義理もない。
そう考えて、わざとらしく息を吐き出すと、ルルーシュはぎろりとスザクを睨んだ。
「話を逸らすな、スザク。あの2人の経緯じゃない。今はお前の話をしているんだ」
その言葉に、スザクはぐっと唇を噛み締めた。
真っ直ぐにこちらを見ていた翡翠が逸らされる。
「……あのとき、軍法会議へ向かう僕を助けたのも、君か」
「そうだ」
「シャーリーのお父さんを巻き込んだナリタ山の作戦を指揮したのも」
「……そうだ」
翡翠の瞳が、逸らされたまま見開かれる。
その色が怒りに染まり、勢いよくこちらを向けられた。
「……っ、なんで……っ!」
「俺は子供の頃に既に言っていたはずだ。ブリタニアをぶっ壊すと」
「だからって、あんな間違ったやり方で……!」
「大事なのは結果だ。手段じゃない」
そう。そう思っていた。
ずっと、そう思っていたはずだった。
「そうやって君は……」
「だから」
スザクが何か言おうとするのを、わざと声を大きくして遮る。
案の定、口を閉ざしたスザクを見て、改めて口を開いた。
「だから、俺はユフィに負けたんだろうな」
「え……」
ルルーシュがそんなことを言うなんて思いも寄らなかったのか、スザクはそれまでの表情を消し、驚いたような顔でこちらを見た。
その顔を見て、ルルーシュは笑う。
「ユフィは、俺から見事に武器を取り上げてしまった。俺の完敗だ」
それは自嘲だった。
少なくとも、ルルーシュ自身はそのつもりだった。
けれど、スザクにはどんな風に映っていたのだろう。
「特区が成立した今、単純にテロを起こしても、もうゼロは正義の味方ではいられなくなる。ブリタニアが日本人を裏切らない限り、俺たちはもう何をしても悪役だ」
「まさか」
スザクの翡翠に怒りの色が浮かぶ。
彼が何を考えたのかなんて、その顔を見ればすぐにわかった。
「言っただろう。完敗だと」
だから先に、きっぱりと否定する。
その途端、スザクの翡翠に驚きと戸惑いの色が浮かんだ。
その瞳から、ルルーシュは視線を逸らした。
「ユフィの夢を……ナナリーのための特区だと言ってくれた異母妹の夢を、壊すつもりはない」
あの日のユフィの言葉を思い出し、噛み締めながら、ルルーシュは呟く。
彼女の手を取ると決め、実際に手を取り合った日に心に決めた誓いを、もう一度。
「考えるさ。別の方法で、ブリタニアを変える道を」
そう言って、スザクに向かって薄く微笑んで見せた。
「ルルーシュ……」
スザクは呆然とした表情でこちらを見て、呟くだけだ。
混乱していると素直に告げているその顔を見て、ルルーシュは苦笑を浮かべ、首を傾げて見せた。
「信じられないか?」
「……っ」
問いかければ、スザクは息を呑んだような仕草を見せる。
少しの間翡翠の瞳を彷徨わせて、ふいにそれがルルーシュから外れた。
そのまま顔すらも背けてしまう。
「今日は、帰るよ」
「……ああ」
そう言って出ていくスザクを、ルルーシュは止めようとはしなかった。
ただ寂しそうな色を浮かべた紫玉の瞳を、ゆっくりと床に落とし、目を閉じた。
スザクが出て行った数分も経たないうちに、再び扉が開く音が聞こえた。
「よかったのか?」
誰かと確認する前に耳に届いた声に、ルルーシュは驚いたように顔を上げた。
開いた扉のこちら側には、いつの間にか銀の髪と紫紺の瞳を持つ少年が立っていた。
「ライ。いたのか」
「僕が今のスザクを君と2人きりにするはずないじゃないか」
「そうだな」
はっきりとそう言い切ってくれたライの言葉に、思わず笑みが零れる。
そのまま笑おうとしたけれど、駄目だった。
座っていたソファからベッドに移動し、腰を下ろす。
そのまま無言で手招きすれば、ライは何も言わずに寄ってきて、隣に座った。
ライがこちらを向く前に、すぐ側にあるその肩にもたれ掛かる。
「ルルーシュ?」
「悪い。暫くここにいてくれ」
らしくないと思いながら、ライの服の袖を掴んで懇願する。
ライは驚くこともなく頷くと、そのままもたれ掛かっているルルーシュの背に手を回し、その細い身体をぎゅっと抱き込んだ。
その温かさに、堪えていた感情が、氷が溶けるかのように溢れ出す。
意識するより前に、身体が震えていることに気づいて、ルルーシュはぎゅっと目を閉じた。
「覚悟はできていたはずなんだが、思いの外きついな……」
その言葉は、ライには聞こえないようにぽつりと呟いたはずだった。
けれど、届いてしまったらしい。
「大丈夫。僕はずっとここにいるよ」
ぎゅっと強く抱き締められたと思った途端、耳元でそんな言葉が届く。
「ああ、知ってる」
思わず零れるかと思った涙は必死に堪えて、ルルーシュもライの背に回した腕に力を込めた。